monologue

60代主婦のひとりごと

ヒロシマに想いを馳せる日。

今朝のラジオ体操は石川県羽咋市

今朝は二度寝して(笑)、目が覚めたらラジオ体操が始まってました(^^;;

なので、途中参加。

羽咋市」と聞いても、『ハクイシ?』とピンと来なくて。

あとでネットで調べたら、千里浜なぎさウエイ(砂浜を車で走れる)があるとかだとわかりピンと来ました( ̄∀ ̄)

むかーし会社の旅行で行ったし、数年前に夫が(これまた)ひとり旅で行った場所だったと思います(^^;;

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今日は広島に原爆投下されてから74年目の日。

 

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数年前に撮影したものですが…。

 

私は広島に親戚がいるわけでもなく、以前は縁もゆかりもない場所でした。

でも、今は違います。

 

経緯をお話ししますと…。(長くなりますが)

次女(昨日も登場した子)が小学高学年の時、夏休みの宿題で「平和作文」を書き、有難いことに、2年続けて佳作を頂き表彰されました。

6年生の時の作文は、その頃NHKで放送された広島の原爆の話「夏服の少女たち」というドラマの感想を織り込んだもの。

そして、卒業を控えた頃娘が「原爆ドームを見に行きたい」と言い出しました。

先述のように、縁もゆかりもない広島は群馬からは遠い場所で、もちろん行ったことはありません。

でも、せっかくなので、娘の卒業旅行として、私と2人で行くことにしたのです。

有難いことに、新幹線とホテルのパックでかなりお安いものがあったので助かりました。

 

そして、娘の春休みに群馬から6時間かけて、初めて広島を訪れたのです。

広島の街や、その空気感は初めてなのになぜか懐かしさを感じ、路面電車(広電)も平和公園も、そこにいるとなぜか落ち着きました。

初めて見た原爆ドームにはものすごい圧を感じ、言葉を失い2人で黙って暫く見つめました。

平和資料館では、何人ものピースボランティアさんが、来場者に丁寧に説明をされてました。

ボランティアさんのお話に、私も娘も涙し、私と同世代くらいのボランティアさんとはひょんなことからその後も交流させて頂けて、以来、毎年娘の春休みには、無事に1年が終わったことのご褒美と、平和に感謝するために、広島旅行をしてきました。

2010年〜2015年、6年ほど、毎年2人で(一度だけ家族みんなで)訪れました。

毎回同じホテルに泊まり、立ち寄る先も、平和公園、資料館、そして宮島と決まってます。

もはや観光ではなく、親戚のお墓参りのようでした(^^;;

私達にとっては、広島に行くこと(広島の空気の中にいること)に意味があるようでした。

「行く」のではなく「帰る」…、2人ともそんな感覚。

ある時には2人で「私達の前世は広島に住んでたのかもね〜」と笑ったほど。

 

先ほどいつも同じホテルに…と書きましたが、一度だけ、平和公園近くのホテルに泊まったことがありました。

でも、目の前の元安川は、原爆のあと、水を求めて多くの人が群がり死体が溢れたことを知っていたので、とうとう一度も部屋のカーテンは開けられませんでした。

そして夜中には、(夢だと思いますが)色々な音が聞こえて落ち着かず、結局翌年はまたいつもの駅前のホテルに戻しました(^^;;

 

最後に行った年あたりから、原爆資料館がリニューアル工事を始めました。

娘とは、全部リニューアルしたらまた来ようねと話して、それ以降現在に至るまで、広島には行ってません。

最近テレビや新聞でもよく取り上げられている、資料館リニューアルの話題。

先日朝日新聞に載っていた方も、交流させて頂いた方でした。

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新聞紙上で久しぶりにお会い出来て、お元気そうで嬉しく、早速お手紙を送りました。

 

その方が、平和公園や、市内を案内してくださった時に話してくれた言葉は、とても重みがあり、考えさせられました。

原爆ドームは大きな墓標」

平和公園の場所は、普通の町があったところ。地面の下には、今も沢山の骨が埋まってる」

「私は、特別な平和論者でもない、普通の人。そんな大勢の普通の人が原爆で一瞬にして命を奪われてしまった」

 

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縁もゆかりもなかった広島は、私の魂のふるさと。

だから、毎年8月6日になるとこうしてヒロシマに想いを馳せるのです。

 

ヒロシマについては、まだまだ語り足りないのですが、長くなりすぎるので、とりあえず今日はここまでで失礼します。

 

お読み頂きありがとうございました。